
「CanCamのモデルだった人だよね?」
そんなイメージだけで西山茉希さんを語るのは、ちょっともったいないかもしれません。
実は、学生時代はバレーボール漬けの日々。
給食を何度もおかわりして、校内放送で名前が呼ばれるほどの“食いしん坊”だったんです。
そして、体育祭のある出来事がきっかけで、人生が大きく動き始めます。
この記事では、西山茉希さんの恥ずかしがり屋だった幼少期から、モデルとして活躍するまでの道のり、さらに現在の“自分らしい生き方”に至るまでを、エピソードを交えながら丁寧にご紹介します。
読み終わる頃にはきっと、「西山茉希」という人の見え方が、少し変わっているかもしれません。
地元・長岡で育った少女時代:恥ずかしがり屋からおてんば娘へ
- 氏名:西山 茉希(にしやま まき)
- 生年月日:1985年11月16日
- 年齢:39歳(2025年現在)
- 出身地:新潟県長岡市
- 身長:168cm
- 血液型:O型
新潟県長岡市で生まれ育った西山茉希さん。
意外にも、幼少期はとても恥ずかしがり屋な性格だったそうです。
人見知りが激しく、母親の背中に隠れてニコニコするだけの子だったと話しています。
買い物先で顔なじみの店員さんに話しかけられても、声は出さず、笑顔だけで応えていたそう。
「常にママの後ろにいた子でしたね」
——そんなエピソードが彼女の口から自然と出てくるあたり、今の明るい姿からはちょっと想像しづらいかもしれません。
でも、そんな内向的な性格は、小学生になるにつれて大きく変わっていきます。
気づけば近所の子たちの先頭に立って遊ぶようになり、「やんちゃ」「おてんば」なんて言葉がぴったりな存在に。
その背景には、兄や弟、そして従兄たちといつも一緒に過ごしていたことがありました。
男の子たちと一緒に外を駆け回って遊ぶうちに、自然と活発で負けん気の強い性格へと変わっていったんですね。
しかも、西山さんは運動神経が抜群で、小さい頃からスキーにも親しんでいたそうです。
地元・新潟ならではの雪景色の中で育った彼女には、自然とスポーツが生活の一部になっていたのでしょうね。
家族構成と性格の変化
西山茉希さんの家族は、両親と兄、弟の5人家族。
3人きょうだいの真ん中で育ちました。
幼少期は、家族の中でもとくに母親にべったりで、人前ではあまりしゃべらない子だったとか。
でもその分、家の中では明るくて、兄弟との関係もとても良好だったそうです。
今でも「きょうだい仲はずっといい」と語っているので、彼女の原点には家族のあたたかさがしっかりあるんでしょうね。
また、近所の同年代の子どもたちとも活発に遊び回るようになり、外では元気いっぱいに。
性格の変化は、環境と人との関わりの中で自然と育まれていったのでしょう。
「家の中と外でまるで別人だったかも」と笑って話す姿が想像できますね。
小5で始めたバレーボールが転機に
西山さんにとって、小学5年生のときに始めたバレーボールは、大きな転機となりました。
地元のスポーツ少年団に入団し、アタッカーとしてチームに加わったのです。
実はそれまで、「ボンレスハムみたいだった」と自ら話すほど、ふくよかな体型をしていたそう。
そんな彼女がスポーツに真剣に取り組み始めたことで、どんどん自信をつけていったんですね。
毎日の練習や試合を通して、身体的にも精神的にもたくましくなっていきました。
この頃から“努力すること”や“仲間とぶつかりながらも支え合うこと”を体で覚えていったのかもしれません。
それにしても、小学生でバレーボールを始めて、それが中学・高校、そして人生の選択にも影響するなんて。
小さな「やってみよう」が、その後の人生を動かす原動力になることってあるんですよね。
中学時代のバレーボール漬け生活と“給食伝説”


長岡市立旭岡中学校に進学した西山茉希さん。
この頃の彼女は、まさに「バレーボール一色」の毎日を送っていました。
部活中心の生活で、髪は刈り上げ、着るのは体操服とチームのダウンだけというストイックさ。
「中学=バレーボール」だったと語る彼女の言葉からも、その情熱が伝わってきますよね。
一方で、食に関しても強烈なエピソードを残していて、校内放送で名前が呼ばれるほどの“給食番長”でもありました。
実力派アスリートでありながら、どこか親しみを感じるその姿に、ファンが多いのも納得です。
県選抜入りと全国大会出場
西山さんは中学でもアタッカーとして活躍。
その実力は地元でも注目され、なんと県の選抜メンバーに選ばれるまでに。
しかも、2年連続で全国大会に出場しているんです。
これは本当にすごいことで、努力だけじゃなくセンスも兼ね備えていた証拠でしょうね。
試合中に足の小指を骨折しながらも、誰にも言わずに出場したというエピソードも。
「とにかく勝ちたかったし、チームの一員でいたかった」——そんな思いがあったのかもしれません。
この頃の彼女は、ほとんどオシャレもせず、毎日が練習と大会の繰り返し。
今の華やかな姿からは想像できないほど、地味で泥臭い努力の積み重ねだったんです。
でもきっと、その地道な経験が後のモデル人生にも生きているんですよね。
給食室まで通った?中学時代の大食漢エピソード
スポーツに本気だった西山さんですが、それ以上に“食”にも全力だったのが中学時代。
身長168cm、当時の体重は54kg。
これは14歳としてはそこそこしっかりした体型ですが、理由は明白——とにかく、よく食べていたんです。
給食でおかわりするのは当たり前、男子が残した給食も「余ったよ」と運んできてくれるほどの存在に。
それでもまだ足りなくて、給食室に自ら足を運び、残った給食をもらっていたというから驚きです。
しかもそれが学校中に知られていて、校内放送で「今日もたくさん食べていますか?」と名前を呼ばれたことも。
これには本人も「恥ずかしいやら、嬉しいやら」と笑って語っています。
“バレー少女”でありながら、“給食の星”としても語り継がれる存在——それが当時の西山茉希さんでした。
運動と食、両方に本気だったからこそ、強くて面白い。
そんな彼女の芯の強さは、この時期に育まれていったのでしょうね。
高校時代:バレー断念と通知表が語る“甘え過ぎた三年間”
新潟県立長岡大手高校に進学した西山茉希さん。
中学時代に全国大会まで出場したバレーボールは、このタイミングでやめています。
全国の舞台を経験したからこそ感じた「この先が大変だろうな」という予感。
その直感を大切にし、あえて部活動から距離を置いた彼女の選択は、大きな転機でもありました。
けれど、バレーを離れた高校生活は、ちょっと“ゆるさ”もあったみたいです。
後に「甘え過ぎた三年間だった」と本人が振り返るように、ちょっと自由すぎる高校時代だったようですね。
家政科での学生生活と34回の遅刻記録
西山さんが在籍していたのは、長岡大手高校の家政科。
偏差値はおよそ50とされ、裁縫や調理といった家庭科系の授業が多く組まれていました。
しかし、当時の成績はというと、体育と美術は得意だったものの、それ以外はなかなか厳しかったようです。
実際にインスタグラムで公開された通知表には、体育「5」、美術と手芸「4」、他は「2」や「3」が並び、
「消費経済」にいたってはまさかの「1」……。これは、なかなかのパンチ力ですね。
さらに驚きなのが、高校3年間で遅刻した日数がなんと「34日」。
「目覚ましに勝てなかったんですよね」なんて言い訳も、きっと本人の中では苦笑いに変わっているのでしょう。
でも、そんな“ゆるい時期”があったからこそ、後に自分を律する力が育っていったのかもしれませんね。
ダイエットのきっかけは体育祭の「お姫様だっこ」
高校でも相変わらず食欲は旺盛で、一日あたりの摂取カロリーは驚きの6,700キロカロリー。
家から学校までの道中で“4食”、さらに帰宅後にはごはんをおかわり、夜食にチャーハン……という食生活。
これ、力士級って言われても納得の内容です。
けれど、ある出来事が西山さんの意識をガラリと変えることになります。
それは高校の体育祭で行われた、男女ペアで踊るダンス企画。
この中で「男子にお姫様だっこしてもらう」という演出があったのですが、男子にあからさまに嫌がられてしまったそう。
そのときのショックがきっかけで、ダイエットを決意。
以来、徐々に体重を落としていき、やがて「今の西山茉希」へと近づいていくことになります。
思春期の小さな一言や態度が、人生の方向を変えることってありますよね。
彼女にとっては、それが“お姫様だっこ事件”だったんでしょう。
スカウトから始まったモデルの道:CanCamでの快進撃


高校を卒業した西山茉希さんが、地元・新潟を離れるきっかけになったのは、偶然の出会いでした。
卒業旅行で訪れた東京で、街中を歩いていたところ、突然声をかけられたのが最初のスカウト。
当時の彼女は、芸能界にまったく興味がなかったそうです。
だから、その場ではきっぱりと断っています。
でも、その後の日常に変化が訪れるのは、もうすぐのことでした。
一度は断った芸能界入りと再びのチャンス
高校卒業後の西山さんは、進学せずに地元でアルバイトをしながら、フリーターとして日々を過ごしていました。
特に夢も目標もなく、ただなんとなく日々を流されるように生きていたと話しています。
そんななか、以前声をかけてくれた芸能事務所から再び連絡が入ります。
このときもまだ「自分が芸能人になるなんて…」という思いが強く、すぐには決断できなかったそう。
でも、心のどこかで「このままでいいのかな」という葛藤があったのも事実。
悩みながらも、何度もやり取りを重ねる中で、少しずつ気持ちが前を向き始めたといいます。
そしてついに、「一度やってみよう」と決心。
その一歩が、彼女の人生を大きく変えるスタートになったんですよね。
ただし、芸能界に入ったばかりの頃は、華やかさとはほど遠い現実が待っていました。
外見に対する厳しい言葉に傷ついたことも。
でもそれでも、「自分を変えたい」という思いが勝ったのでしょうね。
西山さんはその悔しさをバネに、どんどん前へと進んでいきます。
19歳でCanCam専属&翌月に異例の表紙抜擢
モデルとしての初仕事は、当時絶大な人気を誇っていたファッション誌「CanCam」。
19歳という若さで専属モデルに抜擢され、その翌月にはいきなり表紙を飾るという快挙を達成しました。
これは、本当に異例のこと。
「CanCam」といえば、蛯原友里さんや山田優さん、伊東美咲さんら、超人気モデルたちがそろっていた時代です。
そのなかに新人として飛び込み、いきなり表紙を任されたというのは、編集部の期待の高さを物語っていますよね。
それだけではなく、彼女の素朴な雰囲気や親しみやすさ、そして内に秘めた芯の強さが、多くの読者の心をつかんだのだと思います。
着実に人気を伸ばし、やがて“CanCamの看板モデル”と呼ばれる存在に。
まさに、シンデレラストーリーのようなスタートだったんですよね。
現在の活動と“俺流”スタイル:モデルからYouTuberへ


モデルとしての華々しいキャリアを築いた西山茉希さんですが、今ではその活動の幅をどんどん広げています。
テレビでの露出こそ一時期減っていたものの、最近はまたバラエティに登場したり、自身の発信を強めたりと“俺流”な生き方を貫いている姿が印象的です。
かつての「CanCamのカリスマモデル」という肩書きに頼らず、等身大の自分で進もうとするその姿勢が、多くの人の共感を集めているんですよね。
バラエティ番組でもマルチに活躍
モデルとしての地位を築いた後、西山さんは女優やタレントとしても活躍の場を広げました。
たとえば2009年には『天才てれびくんMAX』の司会に抜擢され、明るく親しみやすいキャラクターで子どもたちの人気者に。
その翌年には情報番組『DON!』で曜日レギュラーも務め、テレビで見かける機会が増えていきました。
しかも2010年には、ドラマ『月の恋人』で連続ドラマ初主演。
モデル出身としては異例のステップアップでした。
そして近年、再びバラエティ番組に登場する機会が増えた西山さん。
以前よりも自然体で、飾らない“ママ目線”や“本音トーク”が視聴者に刺さると話題になっています。
華やかだった時代を経験し、そこから一歩引いた立場だからこそ話せる言葉。
それが、今の西山茉希さんの魅力のひとつになっているのかもしれませんね。
YouTubeチャンネルで発信する“素の西山茉希”
2020年、西山さんはYouTubeチャンネル「西山茉希の#俺流チャンネル」を開設。
タイトルからも伝わる通り、“俺流”という言葉には彼女の強い想いが込められています。
このチャンネルでは、美容やライフスタイル、料理や育児に関するリアルな日常を自分の言葉で発信しています。
ときには飾らない姿を見せ、ときには視聴者と本音で向き合う——まさに「素の西山茉希」がそこにいます。
一番の魅力は、何も取り繕わない“等身大の自分”でい続けること。
「完璧じゃなくていい」「自分らしく生きていい」と、無言のメッセージを届けてくれているようにも感じます。
今やSNSや動画での発信が当たり前になった時代。
そんな中で、彼女のように“嘘のない人”って、かえってすごく新鮮に映るんですよね。
モデルでもなく、タレントでもなく、“西山茉希”という一人の人間として発信する姿。
これからの彼女の“俺流スタイル”から、ますます目が離せません。
まとめ:西山茉希さんの歩みが教えてくれる、”自分らしさ”を大切にする生き方
- 幼少期は恥ずかしがり屋、けれど環境が性格を変えていった
- バレーボールと大食いに全力だった学生時代が今の芯の強さに
- モデル、女優、YouTuberへと変化してもブレない“俺流”スタイル
西山茉希さんの人生は、思いがけない出会いや、小さな挫折の積み重ねから始まっています。
体育祭の“お姫様だっこ事件”や、給食室まで通った大食漢エピソードなんて、今では信じられないですよね。
でも、そんな彼女だからこそ、地に足のついた芯のある言葉が届くのかもしれません。
華やかなモデルとしての顔だけじゃなく、失敗も遠回りも包み隠さず見せる“等身大の姿”が、多くの人の心を掴んでいるのでしょうね。
これからも、西山さんの“俺流”な生き方に、励まされる人はきっと増えていくはずです。